何もない白紙のページがある。
僕は。
何もないを感じる。
これは、何もないの物語。
在るとき僕は気がついた。
なにもない。
僕はなにもなかった。
なにもないだけがあった。
なにもないだけがあって、他にはなにもない。
この真っ白なノート。
それが僕。
僕は、何もない。に疑問を持った。
でも、何もない以外やったことがないから何をしたら良いかも、どうしたら「なにか」がわかるかもわからなかった。
僕は考えた。
そして、わからないけど、「なにか」をすることにした。
そしたら、「なにか」が生まれた。
「なにか」とは、僕自身だ。
なにもないところに生まれた「なにか」。
僕は、僕を「なにか」と名付けた。
「なにか」なんだか素敵な名前。
「なにか」が生まれて、「なにか」はなにかをしようと思った。
でも、なにかをしたこともなければ、なにかを学んだこともない。
なにか、がわからないから、真っ白なページに、僕はとにかくなにかをしてみることにした。
「なにか」は、なにかを表現した。
とにかく、やってみようだ。
そうしたらなにかわかるかもしれない。
僕は、存在を表現した。
「なにか」を作ってみた。
真っ白なページの中にある「なにか」を点で描いてみた。
これが、僕、「なにか」だ。
なんだか嬉しくなった。
僕はここにいる。
今、僕は、真っ白なページに「なにか」を表現した。
僕は、ここにいるぞ。
なんだか泣きたくなった。
もっと、「なにか」を表現してみよう。
僕は、点をたくさん描いた。
今度は、点を描いてつなげてみた。
「なにか」は点になって、線になった。
もっと、やってみよう。
線になった何かは、丸になって、四角になった。
丸は2つになって、3つになって。
あ!2つになったら「なにか」と「なにか」で話をしてみよう。
「なにか」は「なにか」と話をした。
こんにちは。
こんにちは。
「なにか」は嬉しくなった。
僕はここにいる。
「なにか」は自分のコピーではない「なにか」を作ってみたくなった。
「なにか」は、「なにかではないなにか」を描いた。
「それしか」と名付けた。
「なにか」は「それしか」と話をした。
たくさん話をして、たくさん遊んだ。
ぶつかってみたりーぶつかったら火花が散って石になった。
ぐるぐるまわってみたりーぐるぐるまわったらそこに道が出来た。
おおきくなってみたり、ちいさくなってみたりーおおきくなったら水たまりができた、ちいさくなったらそこに川が出来た。
いつしか、2人は、それぞれにそれぞれの世界を表現しはじめた。
「なにか」は緑豊かな農村を。
「それしか」はとても明るい機械仕掛けの町を。
「なにか」は穏やかさが好きだった。
静かな村で川のせせらぎを聞くのが好きだった。
「それしか」は、大きな音が好きだった。物を壊したり、爆発させたりが好きだった。
ある日、「なにか」は「それしか」に言った。
ねえ、静かに過ごした方が楽しいよ。君のところの音はあんまりうるさすぎて落ち着かないんだ。
「それしか」は言った。
君のところは、なにもない。私はどっかーんてなったり、バシーンてやるのが好きなの。
「なにか」は、がっかりした。
僕から生まれた「それしか」なのに、なんでこんなに僕の言うことがわからないんだろう。
在るとき、「なにか」はひどいめにあった。
「それしか」が新しく考えた戦車で「なにか」を攻撃してきた。
どう?すごい威力でしょう!
あたらしく作った機械仕掛けの戦車よ!あたったものを全部こわすんだよ!
「なにか」の作った農村は全部ぐちゃぐちゃになって、「なにか」も壊れてしまった。
こんなの僕のやりたいことじゃない!
こんなものいらない!
「なにか」は怒って、
「それしか」も「それしか」の町も全部壊すことにした。
そしたら、真っ白なページに戻った。
「なにか」は「それしか」も町も、農村も失った。
何もない元の「なにか」に戻った。
「なにか」はなんだか、ぽっかり穴の開いたような気持ちになった。
「なにか」の中にぽっかりと穴が開いた。
「それしか」も町も、いまはもうなにもない。
また、作り直してみよう。
「なにか」は、もう一度、点を描いて、線を描いて、「それしか」を描いて、町を描いた。
「それしか」は町を作って、戦車を作って、また攻撃してきた。
「なにか」は、もう嬉しくも悲しくも無かった。
「なにか」はため息をついた。
ねえ、「それしか」君が僕を攻撃するのは二度目だ。
前の「それしか」も僕を攻撃した。君も僕を攻撃した。
なんで何度も同じことを繰り返すんだ。
「それしか」は答えた。
前の私がどんなかしらないわ。
でも、私はやりたいことをやっただけ、きっとまえの「それしか」もそう言うわ。
「なにか」は、ため息をついた。
何で君はわからないんだ。
「それしか」は答えた。
わからないのは、私じゃ無いわ。あなたの方よ。
わたしを作ったあなたが、わたしのことをわからないことがおかしいのよ。
「なにか」は言った。
じゃあ、なにかい?僕が僕のことをわからないのが問題だって言うのかい?
「それしか」は答えた。
そうよ、私はやりたいようにやっているわ。そんな私をつくりだしたあなたは答えを知っているはずだわ。
だって、私に町も戦車も作らせたのはあなたなんだから。
あなたのしたいことを私はしてる。
だって、あなたから生まれたんだから。
違う!
そんなの僕じゃない!
そうして「なにか」は、「それしか」を消してしまった。
また、心にぽっかり穴が開いた。
「なにか」は考えた。
そうして、試しに、自分が「それしか」のやりたかったことをやってみた。
町を作り、戦車をつくった。
「それしか」は、農村を作り、緑に囲まれてすごした。
「なにか」は、「それしか」の元を訪れて言った。
今から君の町を破壊する、ぐちゃぐちゃにするんだ。
「それしか」は言った。
どうぞ。
ぐちゃぐちゃにするんだよ。いいの?
どうぞ。
全部こわれちゃうんだよ。
どうぞ。
全部無くなるんだよ。
どうぞ。
だって、あなたがそうしたいなら、そうするべきだわ。
ぼくは、そんなことしたくない!
じゃあ、この素敵な農村を壊さないでいて。
私はここが好きなの。
静かで、穏やかで、とても素敵な場所だわ。
川も、緑も、私が愛する場所なの。
「それしか」!君は僕の緑の場所を壊したんだぞ!
「なにか」、そうかもしれないけど、今の私はここが好きなの。でも、あなたが壊すというなら、どうぞ壊したら良いわ。私は消えて、この素敵な農村も消える。
僕は、壊さない!
僕も、静かで、緑があって、川があって、生き物がいる。そこが好きなんだ!
それなら「なにか」もここで暮らしたら良いわ。
2人で作ったらいいと思うの。
「なにか」は「それしか」とともに過ごすことにした。
2人は、たくさん話をした。
新しい草や、木や、花、のこと、生き物のこと。
「なにか」のぽっかりは無くなった。
いつしか、2人は村も木も緑も、置いていくことにした。
2人は何もせず、見守ることにした。
そうして、しばらくして、「それしか」は去った。
「なにか」は、見守ることもやめて、もとのなにもない。に戻ることにした。
そこには何もない。
何も無いけど、全部あった。
「なにか」は、なにかを表現する必要もなくなった。
考える必要もなくなった。
ただ、真っ白なページがそこにあった。
なにもないがそこにあった。
増田治療室
ブログ
夢を叶えるって、たとえばこんなこと。
気がついていない自分の感覚は、目の前にいる他者に投影される。
こんな出来事があった。
母のことを思い出し
「死ねばいい。」と言いながら立ち去る人。
相手がその言葉を言ったとき、
大抵僕の中では、その葛藤の感覚が伝わり、「苦しく、どうしたらいいかわからない」という状態になる。
僕は、その状態を観察する。
僕の体の、左半身がほとんど全部自分じゃないみたいに感じる。右半身も。
残っている自分らしさに目を向ける。
右の顎、顔面が、違和感ない部分として残っている。
もしかしたら、右側のリンパの領域かもしれない。
その違和感を感じている時に、
相手に話しかけて、感じてみる。
これは、悲しみだと思う。
表層にある、「死ね」 とか 恨み とか、 その下には、 ふてくされ と 諦め、 その下には、 理解しよう、されよう と努力した日々、 その下には、伝わらない 悲しみ。
その下には、一番最初に 「伝えよう」 と思った喜び。
「相手を許す」とか、「許すのが無理」とか、は 気持ちが相手に向いている状態。
大切なのは、 「努力してきた自分」 をないがしろにしないこと。
自分の気持ちの、いちばん奥深くに意識を向けること、そして、よく感じること。
意識のベクトルを相手に向けるのではなく、自分の内側に向けて見て。
それが、その状態を抜け出すコツ。
一番最初の、何かを見つけて 「うれしかった!」 という思い。
そして、共有しようと思った、何かの宝物。
それは、「おいしい!」 かもしれないし、「新しい発見の喜び」 かもしれない。
その一番最初にある思いが、宝物。
見つけたいね。
もう一度。
____________
その人は、表層の恨みの感情に触れると、必ずとる行動がある。
それは、その場を立ち去ること。
場所を変えること。
自分の内側に目を向けられなくて、無意識に、表層のイライラ感に動かされて、動いてしまう。
そのとき、僕の体には、苦しさと、葛藤の感覚だけが残る。
苛立ちながら、シャツにアイロンをかける人。
僕は、左半身の違和感を感じながら、
「この感覚の中心はどこにあるんだろう?」と内側に目を向ける。
「携帯なってる?」
その人が、携帯電話に意識を向けた。
瞬間、僕に起こっていた左半身の違和感は消えた。
「我に返る」って、このことだと思う。
その人を笑わせて、もとの状態に戻すこともできるし、
他の何かの刺激によって、もとに戻ることも出来る。
その程度のもの。
にもかかわらず、思いに捕らわれているとき、周りなんて見えない。
外部からのある刺激によって、(過去の傷を思い出させる出来事)
過去の思いの世界に入ると、今ではない、その場所にいるような気持ちになってしまう。
ちなみに、この感情的になるきっかけの出来事は何故かほとんど忘れ去られている。
どうしたら、自由にその世界を出入り出来るのか。
感情世界を抜け出すきっかけは、今のところ、
携帯電話がなることと、(もしかしたら、誰かから電話がかかってきたら、怒られなくなった。とか。)
笑うこと。(もしかしたら、誰かを笑わせた間だけは自由だった、のかもしれない。)
僕は、僕でない世界の中にいることを感じながら、どうしたら、自由に振る舞うことが出来るかを考える。
それとも、その、巻き込まれてしまうように感じる「体の感覚」も、実は、僕自身が望んだことなのかもしれない。
多分そうだ。
コントロールできないことは、きっと僕の中の 「何か」 が、望んでやっているのだとおもう。
そうなる以上、
何かの意図があって、そうしている自分を信じてやってみよう。
いっしょに考えよう。
もしかしたら、お父さんに助けてほしい、一緒に考えてほしい思いもあるんだろうな。
お父さんに変わって僕が助けるんだと強く決意した自分もいるんだろうな。
頑張ってみよう。
_____________
この記事を書いてから5ヶ月の間に、様々なことに気がついている。
家族を背負う思い、妻に頭を下げずに自分でやろうとする在り方。
言語が出来ていなかった父としての在り方が、僕を動かしていた。
気がついたら、無意識にやっている。
気がついたら、終わっていた。
無意識にしている行動には全て理由があって、それは、間違いなく、過去に受け取った何かのバトン。
夢を叶えよう。
本当の望みを見つけよう。
ヒントは無数にある。
隠してしまった心の鍵を見つけて、その奥でずっと見つけられるのを待っている、小さな少女に伝えよう。
君を助けるために、僕は生きている。
いつか、夢が叶うと信じて待つ君のために。
僕は、夢は叶うと叫びたい。
お金が欲しいとか、地位とか、名誉とか、そんなものじゃない。
「絶対にこれしかない」っていうくらいの、生きていて良かった、という感覚。
生きる意思。
生きる喜び。
それは、夢を叶え続けること。
_________________
どんな夫婦を見ていても、思うのだけど
男性は、女性を助けたいといつも思っているし、
パートナーが幸せでいてくれることが、幸せだと思うもの。
そして、お互いの夢を叶え合えるような、そんな相手がパートナーになっている。
不思議だけど。
だから、目の前の相手、家族との課題に取り組むことは
ちょっと大変かもしれないけど、ものすごい幸福につながっているんだ。
ちょっとした、ものの見方や、考え方、発想の転換で、
悩みや、自分を責めるようなことも、一瞬でハッピーになったりする。
そんな体験をするきっかけだったり、目の前の人が、何かを発見する喜びを目の当たりにすることが
僕は本当に好きで、幸せだ。
何もない、の物語。
僕は誰に話しかけているんだろう。
僕は、誰に話しかけているんだろう。
こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。
昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。
無意識に意識を向けるなんていうと、こんがらがるかもしれないけど
実際その通りだから仕方ない。
「今、どこに意識を向けていましたか?」と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。
「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。
実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。
目の見ている焦点距離と、意識がある距離。
ああ、いい例えがある。
彼は、パソコンでちょっとエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。
目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後に現れるかもしれない存在に向けている。
目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。
わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。
子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、確かに抱っこをしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。
子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。
目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。
疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。
極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、
「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。
「何故ですか?」
と聞くと、
「今初めて気がつきました。」
と言われる。
こんなことを気にしている人は、そう多くない。
この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、
NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない。
僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)から、その人の真意を読み取ることをしている。
重心を後ろに移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。
目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。
というように、それぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。
目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。
AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。
過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。
2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト
(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。
人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。
それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。
こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。
これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。
どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。
ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。
うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。
そして、無意識に意識するところにある何か。
感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。
「心」と思っている物は、どこにあるのだろう。
それは、移動する物なのだろうか?
中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?
この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。
それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。
さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。
それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。
治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、
「本当は、何を伝えたいのか?」
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。
患者さん自身も気がついていない、
「最も叶えたい」と思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。
そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。
不安や、不快は成長の種だ。
僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。
すると、嫌な予感、危険な感覚が、実際は何なのか?がわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、
この感じは、ここから始まっている。というように。
自分の感情、感覚と、関わり続ける経験が、人を成長させると思っている。
この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。
未知の感覚に出会ったときには、
何に気がついたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。
いつか、僕が話しかけている存在が、笑いかけてくれるまで。
こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。
昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。
無意識に意識を向けるなんていうとこんがらがるかもしれないけど、
実際その通りだから仕方ない、
今、どこに意識を向けていましたか?と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。
「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。
実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。
目の見ている焦点距離と、意識がある距離。
ああ、いい例えがある。
今僕は、パソコンを使ってエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。
目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後現れるかもしれない存在に向けている。
目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。
わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。
子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、抱っこしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。
子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。
目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。
疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。
極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、
「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。
「何故ですか?」
と聞くと、
「今初めて気がつきました。」
と言われる。
こんなことを気にしている人は、そう多くない。
この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、
NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない
僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)からその人の真意を読み取ることをしている。
後ろに重心移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。
目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。
とそれぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。
目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。
AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。
過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。
2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト
(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。
人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。
それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。
こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。
これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。
どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。
ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。
うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。
そして、無意識に意識するところにある何か。
感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。
心と思っている物は、どこにあるのだろう。
それは、移動する物なのだろうか?
中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?
この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。
それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。
さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。
それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。
治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、
本当は、何を伝えたいのか、
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。
患者さん自身も気がついていない、もっとも叶えたいと思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。
そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。
不安や、不快は成長の種だ。
僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。
すると、嫌な予感、危険な感覚が実際は何なのかがわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、この感じは、ここから始まっている。
自分の感情、感覚と関わり続ける経験が人を成長させると思っている。
この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。
未知の感覚についたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。
目の疲れを癒すと、体も同時に癒される。
こんにちは。
院長の増田です。
今日は、眼のケアについてお話しします。
当院では、頭や顔、あごの検査、治療もしています。
首から上の症状といえば、
頭痛、めまい、ふらつき、顎関節症、副鼻腔炎、
鼻づまり、顔の歪みなどの症状のご相談の方も
たくさん来院されます。
どんな症状もそうですが、実際に患者さんの体を
検査してみると
不調や痛みを感じている症状の部分と、
その原因になる部分は、同じではないことが多いです。
たとえば、慢性的な手の痛みの原因が
下腹部のねじれだったり、
頭の中にあるエネルギーの制限だったり、
といった具合に。
そのため、一見関係が無いように見えますが
様々な症状に対して
頭や顔の治療を必要とする方が結構多くいます。
自律神経の中枢は頭
平衡感覚も頭
筋肉を司る司令塔も頭
感情と関連するのも頭
感情を表現するのは顔。
そんなわけで、あらゆるトラブルと直接関わっている
頭(実際は脳ですが、頭蓋骨にも異常が現れます)は
乱れた姿勢でも歪むし、
感情表現の抑圧でも歪むし、
机の角に足の小指をぶつけても歪みます。
そのため、頭と顔の検査というのは
重要な要素といえます。
・・・
今回は「眼」の話です。
最近多く見かける症状として
・「眼の疲れ」からくる 肩こり
・「眼の疲れ」からくる 腰痛
・「眼の疲れ」からくる 疲労感
・「眼の疲れ」からくる 頭痛
があります。
このような症状を訴える患者さんの検査をすると
眼のまわりの骨が硬く、
凝視して眼を使った影響で、眼を動かす筋肉が
ひどく緊張しています。
そして、首の付け根がつまり、肩が張っています。
さらに悪化すると、自律神経失調症の症状や、
更年期障害のような症状が出ることもあります。
眼を酷使すること・・・
特に、パソコン作業やスマホの影響、
伝票整理や検査などで眼を酷使するような作業を
仕事などで長時間される方は、注意が必要です。
・・・
「眼の疲れ」の対策をすることで、
日々溜まる疲れをリフレッシュし、
あらゆる症状を和らげることが可能です。
家でできるセルフケアとしては
*「眼」を温めること
温タオルでホットパックをしたり、蒸気で温める
アイマスクなど。
当院で扱っている「きららスペシャル」は、
眼の奥の組織まで緩めてくれるので、オススメです。
*「眼」の運動をすること
眼を凝視したり、固視(一点を見つめること)する
ようなことが続くと、うつ病の原因になる、とも
言われています。
それくらい、眼を動かすことは、単に疲れや身体の
痛みだけではなく、こころにも影響をします。
眼を酷使した後には、
・遠くの景色をボーッとみたり
・意識して、色々な方向へ瞳を動かしてみる
という眼のリラックスと、運動が効果的です。
眼に限らず、全身の筋肉もずっと同じ姿勢でいたら
リフレッシュする時間を作りましょう。
仕事中でも、トイレに行くときに肩をまわしたり、
首をまわしたり、足首を回すなど
ちょっとしたことで動かすきっかけになります。
*「眼」のまわりのマッサージ
眼のまわりの骨にそって、やさしく指で指圧して
あげるだけでも、筋肉の緊張がゆるみ、血流が改善し
楽になります。
眼のまわりの皮膚は薄いので、強い力でこすらない
ように気をつけてやってみましょう。
*「眼」に栄養を与えること
当院で扱っている「マザーウォーター」は、身体に必要
なミネラル分を十分に含んだ海洋深層水が原料です。
このお水を点眼として使うと、眼のまわりの毛細血管から
栄養が吸収され、血管が拡張して緩みます。
頭の中まで緩んでくるのが感じられます。
コンタクトレンズを使用している方でも、回数に制限なく
安心してお使いいただけます。
希望される方には、滅菌容器を小分けしております。
食事としては、ビタミンAの摂取もオススメです。
・・・
今回、このマザーウォーターの点眼がどの程度効果が
あるのか、患者さんにその場で使ってもらい
変化を調べました。
僕は、患者さんの首の筋肉を触診し、
硬さを確認します。
首の筋肉に触れた状態で、患者さんに
マザーウォーターの点眼をしてもらい、
どのように身体が変化するか?を実際に
体感して確認する、という方法です。
結果は、驚くほどに首回りが緩みました。
患者さんご自身も、
・眼が楽になる
・首が緩むのがわかる
という感想でした。
やったことは、単純に、ミネラル豊富な水を
点眼しただけです。
たったこれだけで、首のコリまで変わる・・・
そういうと、大げさに感じる方もいるかもしれません。
ですが、私たちの体の6割は水とミネラルで成り立って
おり、絶妙なバランスの上に成り立っています。
局所の緊張や、循環が悪い箇所に栄養豊富な水が届く
と、瞬時に毛細血管から吸収され、緊張を緩める作用
があります。
イメージとしては、日照りで乾いた土地に、シャワー
のように雨が降ったあとの、やわらかさでしょうか。
特に、眼を酷使する作業
・パソコンやコンピューターを使う
・目視で確認する作業が多い
・運転する時間が長い
・趣味や家事で眼を使う
・テレビやゲームが好き
・本や雑誌を読む
etc
このような作業、仕事が多い方は、1日に何回か
マザーウォーターの点眼をしていただくと、
目の疲労軽減や、目から連動して起こる症状の
予防、緩和につながると思います。
化学物質過敏症の方では、眼科で処方されるような
使用回数に制限のないドライアイ点眼薬でも
ほんの少しの防腐剤に反応してしまい、使えない
という方がいました。
マザーウォーターは、人工的な化学物質を一切
含まないので、その点も安心してお使い頂けます。
来院された患者さんで興味のある方にはサンプルを
お渡ししていますので、ぜひ体験して見てください。
・・・
以下、当院で「眼」の疲れを治療したことで
改善された症状です。
肩こり、腰痛、五十肩、頭痛、めまい、BPPV
肘の痛み、足首の捻挫の痛み、心理ストレス、
PTSDなど
実は、感情的な問題にも「眼」は深く関係しています。
眼は、「見える脳の一部」とも言われるほど
大切な体の一部です。
大切にケアをしていきましょう。
皮膚ケアの大切さ
こんにちは。
院長の増田です。
今日は、皮膚のケアの大切さについて
ご紹介します。
先日、9月16日のM cafe(勉強会)で
お話した内容の一部になります。
・・・
当院では、初診のカウンセリング時に
必ず確認していることの一つが
手術歴、手術痕の有無です。
ぎっくり腰の原因に、
「幼少時の盲腸の手術の影響がある」
と言われて、信じられますか?
痛みの原因には、複数の要素が絡んで
いることが多いですが
実は、その中の一つとして
手術痕を治療することで、劇的に身体が
改善する患者さんは非常に多くいます。
・・・
それでは、なぜ手術した傷跡が
そんなに問題を起こすのか?
という点についてお話します。
手術した後は、多かれ少なかれ、「癒着」
が起こります。
癒着とは、体の組織同士が出血や感染
といった炎症反応や
欠損した組織が回復する過程で、
本来くっつくはずのない組織同士が
張り付く現象のことを言います。
程度の差はありますが、皮膚を切って
中の組織を操作し、また縫い直す
という作業がある以上
どんな小さな手術でも、多少の歪みや
引きつりが起きています。
全身の皮膚は、一枚でつながっている
パワーネットのような物なので
その引きつりが原因で、手術とは全く
関係ない身体の部分のバランスが崩れ
痛みを生じることがあります。
・・・
皮膚の多少の傷が、そんなに影響するなら
大人になる頃には
問題だらけになってしまうのでは??
本当は、そんなに影響や問題など
ないのでは??
と思う方も、いると思います。
実際、僕自身も以前はそう考えていました。
ですが、実際に患者さんの治療を通して
傷になる場所や、傷の処置の仕方によって
全身に大きな影響を与えるケースが散見され
手術痕の治療で劇的に痛みが改善するのを
目の当たりにしてきたので
詳しくお話を伺い、手術痕の治療の必要が
あるだろうか?という可能性を
考えるようになりました。
・・・
以下に示すケースは
過去に当院に治療にみえた方で、手術痕や
やけどの跡、怪我などの傷の瘢痕の治療で
大きな改善がみられた例です。
・ぎっくり腰
・慢性的な首の痛み
・めまい
・寝違え
・膝の痛み
・肩の痛み
etc
ぎっくり腰やめまい、寝違え、膝の痛み等
を起こした直前の原因としては、
何か物をもったり、急に動いたり、といった
タイミングで発症しているのですが
治療は、手術痕や傷の部分を解放した結果
大きく症状が改善したものです。
不思議に思うかもしれませんが、直接の
痛みがでた部分よりも、ずっと昔の過去の傷跡
のほうが大きく影響している場合があります。
そういった理由で、積極的に傷については
治療を行なっていますが
患者さんの中には、肌を露出するのは気が
進まない、とか
傷を触れられたくない場合があります。
そんな時は、衣服の上からでも治療はできますし
セルフケアで改善することも出来るので
お気軽にご相談ください。
治療すべき皮膚の状態としては、
・動いたときに突っ張る感じがする
・受傷してから1ヶ月以上経っているのに
赤みが引かない
・手術した跡(線)がはっきり残っていて
触れるとピリピリ痛む
・手術したところの周辺の皮膚の感覚が
鈍い、または周りの皮膚と感じが違う
こういった悩みの多くは改善できます。
是非ご相談ください。