増田治療室

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2019-12-31 23:47:00

子供の課題、親の課題

90分コースの中で取り組んでいくことのひとつに、親との関係性に関する課題があります。
感情トラブルの根底にある物は、ほとんどが両親との関係性から来ているものです。


感情に囚われたとき、人は冷静さを失います。
よく考えれば、相手も自分も傷つかない方法があるはずなのに、「あえて」双方が傷つくような方法を選択します。

攻撃的になったり、自分を責めたり。

結果、自己嫌悪に陥り、疲弊して、また更なる悪循環に入っていきます。


自分の内面をよく見て、感情のワークに取り組むと、だんだんと感情的になることが減って、穏やかな気持ちで目の前の問題に向き合うことが出来るようになります。

 

同じような何かの出来事に遭遇しても、感情が動かずに、冷静に穏やかに見られるようになったら、その部分は課題をクリアして、「癒された」という目安になります。

 

 

こういった課題に取り組むかどうかは、個人の自由で、もちろん取り組まずに日常を過ごすことも出来ます。


感情的になるような場面や人を、できるだけ避けたり、

見て見ぬ振りをして、内心は感情が反応している自分を押し殺したり、

ほかの何かに没頭してみるとか、対処の仕方は沢山あって。



でもそれは、問題を根本解決する行動では無くて、人生において、何かの 「選択」 の仕方や、「行動の自由度」は下がります。

しかし、感情的になって、相手と自分を傷つけることはせずにすみます。


さて、この手をつけずに放置した課題がどこへ行くのか?というと、子供が変わりに同じ課題に向き合うことが多いようです。

実際に、90分コースで取り組んでいる患者さんを見ても、これまで関わってきた様々なケースを振り返ってみても、

だいたい3世代に渡って同じテーマを相続していることがほとんどです。

3世代より前のことは、話を実際に聞く機会がないので、確認するのが難しいけど、実際は3世代より前から、ずっと続いてきた課題なのかもしれません。

 



結局、両親が放置した手つかずの感情トラブルは、成長の過程で子供が学習(無意識の姿勢と行動のパターンや、言葉の主観的意味、等)し、学校や社会の中で向き合う場面と遭遇するのです。


このとき困るのは、同じ課題を後回しにしていた親です。

 


自分自身が解決していない、やり残した課題(子供が家庭に持ち帰る問題)を突きつけられると、解決方法を見つけられない親は、感情的になり、子供に苛立ちをぶつけます。


それは、大きいものでは、「なぜ生きるのか?」と言う問いだったり、
より現実的な部分では、仕事や恋愛の悩みだったり、

人間関係だったり。


子供に対して感情的になるのが、当たり前のように思う人もいるかもしれませんが、

本当に相手の未来のことを真剣に考えた行動は、感情的になってぶつかることでしょうか?


理屈で言えば、もっと良いやり方があることもわかっているのに、どうしても理性的な行動がとれない。


そこに、自分自身の課題が残っています。


感情は、自分の本質に近づくための、大切な鍵になります。


目の前の事を一つずつ見ていくと、自分の本当の気持ちにたどり着きます。
それは、親の親の世代から続く、先祖代々のパターンを理解する助けになるのです。

 

 

理解すれば、対処もできるし、その課題を終えることができます。

そういうふうにして、1つずつ、自由になっていく。

 

 

実際にやることは、とても地味で現実的なことですが、無意識のパターンを抜け出した時の開放感や、現実面での変化は、本当に素晴らしいです。

2019-12-30 23:45:00

夢を叶えるって、たとえばこんなこと。

気がついていない自分の感覚は、目の前にいる他者に投影される。

こんな出来事があった。


母のことを思い出し
「死ねばいい。」と言いながら立ち去る人。

相手がその言葉を言ったとき、
大抵僕の中では、その葛藤の感覚が伝わり、「苦しく、どうしたらいいかわからない」という状態になる。


僕は、その状態を観察する。


僕の体の、左半身がほとんど全部自分じゃないみたいに感じる。右半身も。
残っている自分らしさに目を向ける。



右の顎、顔面が、違和感ない部分として残っている。

もしかしたら、右側のリンパの領域かもしれない。

その違和感を感じている時に、
相手に話しかけて、感じてみる。


これは、悲しみだと思う。
表層にある、「死ね」  とか  恨み とか、 その下には、 ふてくされ  と 諦め、 その下には、 理解しよう、されよう  と努力した日々、 その下には、伝わらない  悲しみ。


その下には、一番最初に 「伝えよう」 と思った喜び。


「相手を許す」とか、「許すのが無理」とか、は  気持ちが相手に向いている状態。

大切なのは、 「努力してきた自分」 をないがしろにしないこと。
自分の気持ちの、いちばん奥深くに意識を向けること、そして、よく感じること。

 

意識のベクトルを相手に向けるのではなく、自分の内側に向けて見て。

それが、その状態を抜け出すコツ。



一番最初の、何かを見つけて 「うれしかった!」 という思い。
そして、共有しようと思った、何かの宝物。


それは、「おいしい!」 かもしれないし、「新しい発見の喜び」 かもしれない。

その一番最初にある思いが、宝物。

見つけたいね。
もう一度。

 

____________

 

 


その人は、表層の恨みの感情に触れると、必ずとる行動がある。


それは、その場を立ち去ること。
場所を変えること。

 


自分の内側に目を向けられなくて、無意識に、表層のイライラ感に動かされて、動いてしまう。


そのとき、僕の体には、苦しさと、葛藤の感覚だけが残る。


苛立ちながら、シャツにアイロンをかける人。


僕は、左半身の違和感を感じながら、
「この感覚の中心はどこにあるんだろう?」と内側に目を向ける。

 


「携帯なってる?」

その人が、携帯電話に意識を向けた。

瞬間、僕に起こっていた左半身の違和感は消えた。


「我に返る」って、このことだと思う。


その人を笑わせて、もとの状態に戻すこともできるし、
他の何かの刺激によって、もとに戻ることも出来る。


その程度のもの。

 


にもかかわらず、思いに捕らわれているとき、周りなんて見えない。

 

外部からのある刺激によって、(過去の傷を思い出させる出来事)

過去の思いの世界に入ると、今ではない、その場所にいるような気持ちになってしまう。

 


ちなみに、この感情的になるきっかけの出来事は何故かほとんど忘れ去られている。


どうしたら、自由にその世界を出入り出来るのか。

 


感情世界を抜け出すきっかけは、今のところ、

 

携帯電話がなることと、(もしかしたら、誰かから電話がかかってきたら、怒られなくなった。とか。)

笑うこと。(もしかしたら、誰かを笑わせた間だけは自由だった、のかもしれない。)


僕は、僕でない世界の中にいることを感じながら、どうしたら、自由に振る舞うことが出来るかを考える。

それとも、その、巻き込まれてしまうように感じる「体の感覚」も、実は、僕自身が望んだことなのかもしれない。

多分そうだ。

コントロールできないことは、きっと僕の中の 「何か」 が、望んでやっているのだとおもう。


そうなる以上、
何かの意図があって、そうしている自分を信じてやってみよう。


いっしょに考えよう。


もしかしたら、お父さんに助けてほしい、一緒に考えてほしい思いもあるんだろうな。

お父さんに変わって僕が助けるんだと強く決意した自分もいるんだろうな。

頑張ってみよう。

 

 

_____________

 

 

 


この記事を書いてから5ヶ月の間に、様々なことに気がついている。

家族を背負う思い、妻に頭を下げずに自分でやろうとする在り方。
言語が出来ていなかった父としての在り方が、僕を動かしていた。

 


気がついたら、無意識にやっている。
気がついたら、終わっていた。

 


無意識にしている行動には全て理由があって、それは、間違いなく、過去に受け取った何かのバトン。

夢を叶えよう。

本当の望みを見つけよう。

 

ヒントは無数にある。


隠してしまった心の鍵を見つけて、その奥でずっと見つけられるのを待っている、小さな少女に伝えよう。

君を助けるために、僕は生きている。

いつか、夢が叶うと信じて待つ君のために。

僕は、夢は叶うと叫びたい。


お金が欲しいとか、地位とか、名誉とか、そんなものじゃない。

「絶対にこれしかない」っていうくらいの、生きていて良かった、という感覚。

生きる意思。
生きる喜び。
それは、夢を叶え続けること。

 

 

 

 

_________________

 

 

 

 

どんな夫婦を見ていても、思うのだけど

男性は、女性を助けたいといつも思っているし、

パートナーが幸せでいてくれることが、幸せだと思うもの。

 

 

そして、お互いの夢を叶え合えるような、そんな相手がパートナーになっている。

不思議だけど。

 

 

だから、目の前の相手、家族との課題に取り組むことは

ちょっと大変かもしれないけど、ものすごい幸福につながっているんだ。

 

 

ちょっとした、ものの見方や、考え方、発想の転換で、

悩みや、自分を責めるようなことも、一瞬でハッピーになったりする。

 

 

そんな体験をするきっかけだったり、目の前の人が、何かを発見する喜びを目の当たりにすることが

僕は本当に好きで、幸せだ。

 

2019-12-27 12:40:00

何もない、の物語。

何もない白紙のページがある。

僕は。
何もないを感じる。

これは、何もないの物語。


在るとき僕は気がついた。

なにもない。
僕はなにもなかった。

なにもないだけがあった。

なにもないだけがあって、他にはなにもない。

この真っ白なノート。
それが僕。

僕は、何もない。に疑問を持った。

でも、何もない以外やったことがないから何をしたら良いかも、どうしたら「なにか」がわかるかもわからなかった。

僕は考えた。

そして、わからないけど、「なにか」をすることにした。

そしたら、「なにか」が生まれた。


「なにか」とは、僕自身だ。

なにもないところに生まれた「なにか」。

僕は、僕を「なにか」と名付けた。

「なにか」なんだか素敵な名前。

「なにか」が生まれて、「なにか」はなにかをしようと思った。

でも、なにかをしたこともなければ、なにかを学んだこともない。
なにか、がわからないから、真っ白なページに、僕はとにかくなにかをしてみることにした。

「なにか」は、なにかを表現した。

とにかく、やってみようだ。
そうしたらなにかわかるかもしれない。

僕は、存在を表現した。

「なにか」を作ってみた。

真っ白なページの中にある「なにか」を点で描いてみた。

これが、僕、「なにか」だ。

なんだか嬉しくなった。

僕はここにいる。

今、僕は、真っ白なページに「なにか」を表現した。

僕は、ここにいるぞ。

なんだか泣きたくなった。

もっと、「なにか」を表現してみよう。

僕は、点をたくさん描いた。

今度は、点を描いてつなげてみた。

「なにか」は点になって、線になった。

もっと、やってみよう。

線になった何かは、丸になって、四角になった。

丸は2つになって、3つになって。

あ!2つになったら「なにか」と「なにか」で話をしてみよう。

「なにか」は「なにか」と話をした。


こんにちは。

こんにちは。

「なにか」は嬉しくなった。

僕はここにいる。

「なにか」は自分のコピーではない「なにか」を作ってみたくなった。

「なにか」は、「なにかではないなにか」を描いた。

「それしか」と名付けた。

「なにか」は「それしか」と話をした。

たくさん話をして、たくさん遊んだ。

ぶつかってみたりーぶつかったら火花が散って石になった。
ぐるぐるまわってみたりーぐるぐるまわったらそこに道が出来た。
おおきくなってみたり、ちいさくなってみたりーおおきくなったら水たまりができた、ちいさくなったらそこに川が出来た。

いつしか、2人は、それぞれにそれぞれの世界を表現しはじめた。

「なにか」は緑豊かな農村を。

「それしか」はとても明るい機械仕掛けの町を。

「なにか」は穏やかさが好きだった。
静かな村で川のせせらぎを聞くのが好きだった。

「それしか」は、大きな音が好きだった。物を壊したり、爆発させたりが好きだった。


ある日、「なにか」は「それしか」に言った。

ねえ、静かに過ごした方が楽しいよ。君のところの音はあんまりうるさすぎて落ち着かないんだ。

「それしか」は言った。

君のところは、なにもない。私はどっかーんてなったり、バシーンてやるのが好きなの。

「なにか」は、がっかりした。
僕から生まれた「それしか」なのに、なんでこんなに僕の言うことがわからないんだろう。

在るとき、「なにか」はひどいめにあった。
「それしか」が新しく考えた戦車で「なにか」を攻撃してきた。

どう?すごい威力でしょう!
あたらしく作った機械仕掛けの戦車よ!あたったものを全部こわすんだよ!

「なにか」の作った農村は全部ぐちゃぐちゃになって、「なにか」も壊れてしまった。


こんなの僕のやりたいことじゃない!
こんなものいらない!

「なにか」は怒って、
「それしか」も「それしか」の町も全部壊すことにした。


そしたら、真っ白なページに戻った。


「なにか」は「それしか」も町も、農村も失った。

何もない元の「なにか」に戻った。

「なにか」はなんだか、ぽっかり穴の開いたような気持ちになった。

「なにか」の中にぽっかりと穴が開いた。

「それしか」も町も、いまはもうなにもない。


また、作り直してみよう。

「なにか」は、もう一度、点を描いて、線を描いて、「それしか」を描いて、町を描いた。

「それしか」は町を作って、戦車を作って、また攻撃してきた。

「なにか」は、もう嬉しくも悲しくも無かった。

「なにか」はため息をついた。

ねえ、「それしか」君が僕を攻撃するのは二度目だ。
前の「それしか」も僕を攻撃した。君も僕を攻撃した。

なんで何度も同じことを繰り返すんだ。

「それしか」は答えた。
前の私がどんなかしらないわ。

でも、私はやりたいことをやっただけ、きっとまえの「それしか」もそう言うわ。

「なにか」は、ため息をついた。
何で君はわからないんだ。

「それしか」は答えた。
わからないのは、私じゃ無いわ。あなたの方よ。
わたしを作ったあなたが、わたしのことをわからないことがおかしいのよ。

「なにか」は言った。
じゃあ、なにかい?僕が僕のことをわからないのが問題だって言うのかい?

「それしか」は答えた。
そうよ、私はやりたいようにやっているわ。そんな私をつくりだしたあなたは答えを知っているはずだわ。

だって、私に町も戦車も作らせたのはあなたなんだから。


あなたのしたいことを私はしてる。
だって、あなたから生まれたんだから。


違う!

そんなの僕じゃない!


そうして「なにか」は、「それしか」を消してしまった。

また、心にぽっかり穴が開いた。

「なにか」は考えた。


そうして、試しに、自分が「それしか」のやりたかったことをやってみた。

町を作り、戦車をつくった。

「それしか」は、農村を作り、緑に囲まれてすごした。

「なにか」は、「それしか」の元を訪れて言った。

今から君の町を破壊する、ぐちゃぐちゃにするんだ。

「それしか」は言った。

どうぞ。


ぐちゃぐちゃにするんだよ。いいの?


どうぞ。


全部こわれちゃうんだよ。


どうぞ。


全部無くなるんだよ。


どうぞ。
だって、あなたがそうしたいなら、そうするべきだわ。


ぼくは、そんなことしたくない!

じゃあ、この素敵な農村を壊さないでいて。
私はここが好きなの。

静かで、穏やかで、とても素敵な場所だわ。
川も、緑も、私が愛する場所なの。


「それしか」!君は僕の緑の場所を壊したんだぞ!

「なにか」、そうかもしれないけど、今の私はここが好きなの。でも、あなたが壊すというなら、どうぞ壊したら良いわ。私は消えて、この素敵な農村も消える。


僕は、壊さない!
僕も、静かで、緑があって、川があって、生き物がいる。そこが好きなんだ!


それなら「なにか」もここで暮らしたら良いわ。


2人で作ったらいいと思うの。


「なにか」は「それしか」とともに過ごすことにした。

2人は、たくさん話をした。

新しい草や、木や、花、のこと、生き物のこと。


「なにか」のぽっかりは無くなった。

いつしか、2人は村も木も緑も、置いていくことにした。

2人は何もせず、見守ることにした。

そうして、しばらくして、「それしか」は去った。

「なにか」は、見守ることもやめて、もとのなにもない。に戻ることにした。


そこには何もない。
何も無いけど、全部あった。

「なにか」は、なにかを表現する必要もなくなった。

考える必要もなくなった。

ただ、真っ白なページがそこにあった。


なにもないがそこにあった。

2019-12-19 23:43:00

僕は誰に話しかけているんだろう。

僕は、誰に話しかけているんだろう。

こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。

昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。

無意識に意識を向けるなんていうと、こんがらがるかもしれないけど

実際その通りだから仕方ない。

「今、どこに意識を向けていましたか?」と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。

「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。

実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。

 

目の見ている焦点距離と、意識がある距離。


ああ、いい例えがある。


彼は、パソコンでちょっとエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。

目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後に現れるかもしれない存在に向けている。

目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。

わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。

子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、確かに抱っこをしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。

子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。



目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。

 

疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。

極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、

「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。

「何故ですか?」
と聞くと、

「今初めて気がつきました。」
と言われる。

こんなことを気にしている人は、そう多くない。



この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、
NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない。


僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)から、その人の真意を読み取ることをしている。

重心を後ろに移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。

 

目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。


というように、それぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。


目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。

AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。

過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。


2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト

(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。


人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。

それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。


こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。


これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。

どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。

ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。


うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。

そして、無意識に意識するところにある何か。

感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。

「心」と思っている物は、どこにあるのだろう。

それは、移動する物なのだろうか?

中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?


この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。

それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。

さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。

それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。


治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、
「本当は、何を伝えたいのか?」
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。


患者さん自身も気がついていない、

「最も叶えたい」と思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。


そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。



不安や、不快は成長の種だ。

 


僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。

すると、嫌な予感、危険な感覚が、実際は何なのか?がわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、

この感じは、ここから始まっている。というように。

自分の感情、感覚と、関わり続ける経験が、人を成長させると思っている。


この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。


未知の感覚に出会ったときには、
何に気がついたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。

 

いつか、僕が話しかけている存在が、笑いかけてくれるまで。

 

 

 

 

こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。

昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。

無意識に意識を向けるなんていうとこんがらがるかもしれないけど、
実際その通りだから仕方ない、

今、どこに意識を向けていましたか?と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。

「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。

実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。

目の見ている焦点距離と、意識がある距離。


ああ、いい例えがある。


今僕は、パソコンを使ってエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。

目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後現れるかもしれない存在に向けている。


目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。

わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。

子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、抱っこしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。

子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。



目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。


疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。

極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、

「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。

「何故ですか?」
と聞くと、

「今初めて気がつきました。」
と言われる。

こんなことを気にしている人は、そう多くない。



この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、

NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない
僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)からその人の真意を読み取ることをしている。

後ろに重心移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。

目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。
とそれぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。


目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。

AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。

過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。


2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト
(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。


人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。

それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。


こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。


これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。

どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。

ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。


うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。

そして、無意識に意識するところにある何か。

感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。

心と思っている物は、どこにあるのだろう。

それは、移動する物なのだろうか?

中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?


この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。

それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。

さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。

それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。


治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、

本当は、何を伝えたいのか、
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。


患者さん自身も気がついていない、もっとも叶えたいと思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。


そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。



不安や、不快は成長の種だ。
僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。

すると、嫌な予感、危険な感覚が実際は何なのかがわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、この感じは、ここから始まっている。


自分の感情、感覚と関わり続ける経験が人を成長させると思っている。


この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。


未知の感覚についたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。

2019-08-10 23:37:00

水について

こんにちは。院長の増田です。

 

 

8月8日に立秋を迎え、暦の上では秋の始まりですが

猛暑日が続いています。

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

 

 

熱中症対策や、食事と栄養の基本

治療効果の促進や、治癒を助ける方法として

当院では「お水」の大切さを、お伝えしています。

 

 

なぜ、そんなに「お水」が大切なのか?

 

 

いろいろな視点があり、診療中は主に栄養と代謝の面から

患者さんにはお伝えしていますが

 

今回は、目に見えない情報、という視点に絞って

体験とあわせてお話ししようと思います。

 

 

 

 

「水は情報を記憶する」

 

 

という説があることをご存知でしょうか?

 

 

 

水は情報を記憶する説を紹介したのは、江本勝氏です。

 

江本氏は、水の結晶を撮影する方法を開発し、

日本の名水や、水道水、その他様々な種類の水を調べ

良い水は、バランスのとれた美しい結晶構造を示すことが明らかになりました。

 

 

逆に、汚染された水は、美しい結晶構造が見られませんでした。

 

 

水に音楽を聴かせたり、写真を見せたり、言葉をかけたり、

気を送ったり、祈りを捧げたりすることで、

結晶構造がどのように変化するのか?の実験を重ね

 

いずれの場合にも、水は敏感に反応して、その姿(結晶)が変化することがわかりました。

 

興味のある方は、江本氏の本を読んでみてください。

江本氏の研究は、日本よりも海外での方が、高い評価、支持を得ており

海外では水に関するたくさんの研究がされています。

 

 

 

 

人の体は、60〜70%が水分です。

(赤ちゃんは、80%)

 

その水は、いつも、情報を受け取っています。

 

そのことを応用した治療として、

音楽療法(音楽に合わせて振動する椅子に座って、体にダイレクトに音楽の波動を伝える療法)や

音叉を使った治療、気功や波動医学が実際にあるわけですが

 

治療に限らず、日々の生き方や在り方、使っている言葉や、五感を通して入ってくる音や言葉、

触れる物や空間、振動、そういったものが、「自分自身をカタチ作っている」ということが

よりリアルに感じられます。

 

 

例えば、心配ばかりする人、人を否定する人、自慢ばかりする人、悲しい気持ちにさせる人。

 

そんな人に囲まれている。

または、自分がそんな人になっている。

 

 

応援してくれる人、親身になって考えてくれる人、喜びを与えてくれる人、笑わせてくれる人。

 

そんな人に囲まれている。

または、自分がそんな人になっている。

 

 

いろんな人がいます。

 

でも、なぜ、簡単に変わることが出来ないのでしょうか?

 

どうしたら、自分が望む生き方、在り方へシフトできるでしょうか?

 

 

 

 

 

原因は、一つではなく、複数の要因が絡みあっていることが殆どですが

体の不調、心の状態、思考の癖、生き方、在り方、どれをとっても

自分の体の中の「お水」の状態が関係しています。

 

 

逆に言うと、自分の体内の60〜70%を占める「水の環境」を整えてあげることで

体の健康や、心の安定にとどまらず、

性格や、考え方や、感情や、行動パターンや、人間関係にまで、影響させる

ということが言えます。

 

 

 

 

 

治療家として、日々 人の体に触れている僕自身の感じていること。

 

たくさんの人の体で確認してきたことの一つとして、

顔面のリンパのうっ滞が、変化できない人に共通する1つの条件にあります。

 

 

顔面のリンパのうっ滞は、情緒の不安定さ、他人の影響の受けやすさ、

思考による決めつけ(思い込み)と関係しています。

 

表情がない人ほど、顔面のリンパはうっ滞します。

 

 

 

前頭鼻骨縫合周辺のリンパのうっ滞がある人は、思い込みに人生を左右されやすく、

感情的になると、その状態から抜け出せない傾向があります。

 

左右の、側頭骨と蝶形骨の結合部分にリンパのうっ滞がある人は、ネガティブな

雑念が浮かびやすくなる傾向があります。

 

 

 

妻は、リンパセラピストでもありますが、この部分にうっ滞しやすい人が好む食事や

摂取量が多い食品には、○○がある、と言います。

 

 

 

 

 

リンパ液は、血液の一部で、体液の主成分は90%以上が「水」です。

 

 

循環しない水。

循環しない思考。

 

 

流れの悪い川や池が、汚水やヘドロで澱むように

循環しない水は腐ります。

 

 

 

 

人体の中で水が腐る、ということは、まずあり得ないのですが、

リンパのうっ滞によって、老廃物や代謝産物が回収できずに、体の細胞に溜まっている

という状況は、具体的には、

 

 

・すぐ疲れる

・休んでも疲れがとれない

・だるい、からだが重い

・触ると痛い

・やる気が起きない

・冷える

・太りやすい

・肌が荒れる

・アレルギー症状や感染症にかかりやすい

・すぐ風邪をひく

・不調が長引く、治りにくい

・便秘

・不眠傾向

・メンタルが不安定

etc

 

 

といった症状として現れたり、

ほとんど多くの慢性的な不調を抱えた人に起こっている状態です。

 

 

そして、流れ(循環)が悪く、ドロドロの血液、リンパ液の停滞は

むくみ、冷え、肥満だけではなく、慢性疾患の原因になります。

 

 

 

 

こんな風に体液を見ていくと、

 

「流れが無く、うっ滞する水」というのは、

その人の思考や生き方、行動までも含む「囚われ」の一つの形にも思えます。

 

 

動かない水、囚われた意識。

 

 

その「水」の淀みをキレイにして、循環させること。

そのコツは、

 

・水の摂り方

・どんな水を体内に入れるか

・出せる体になっているか?

 

が基本、土台にあり、

 

・食べるもの、飲むもの

・運動や活動

・姿勢のクセ

・衣類や靴、住環境

 

といった生活のこと、物質的なこと。

 

・普段の言葉遣い

・どんな音楽やテレビを好むか

・思考や感情のクセ

・人間関係

 

などの情報に至るまで

 

 

ここに挙げたことは、ほんの一部にすぎませんが

ほとんどの人に関係する事をザッと挙げただけでも、これだけ多くのことから

影響を受けているのだ、ということが言えます。

 

 

 

 

 

治療や、リンパドレナージュを受けることは、それらをサポートする

ほんの少しの手段であり、

 

治るのも、治すのも、患者さんご本人の「生きる力」によるものです。

 

 

生きる力を最大限に引き出し、望む未来を手にいれる、シフトするには

水の飲み方を始め、「当たり前のこと」

「これ(=水の飲む)をしないと、体は生きていけない」という

基本の部分をどれだけ丁寧に、大切にできるか?

 

 

そして、体内の「お水」の環境を、より心地よいほうへ整えることが

実はとてもシンプルで、簡単な方法である、といえるのではないでしょうか?

 

 

 

 

心が温かく、晴れやかになる。

自分のこころ、体の中を、そんな「お水」で満たしませんか?

 

 

当院では、治療のほかに栄養カウンセリングや、月に1回の勉強会で

お水や食事のこと、家でのセルフケアや、季節に応じた体の見方など

お伝えしています。

 

 

よりスムーズな「治癒」を目指して

自分でケアを続けられる「食事と栄養」の基本を伝えたくて。

 

関わる全ての人が、より自分らしく生きることを願って

その人の家族全体までもが、より良くなり続けることを願って。

 

 

そんなことを日々、思いながら、治療にあたっています。

 

 

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